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音楽劇「ファンファーレ」感想(ネタバレあり) [レポート]

観終わってからずいぶん時間が経って、やっと感想を吐き出せるようになりました。
それだけ、自分に強いインパクトをもたらした「体験」でした。

■劇のあらまし
全席自由席のため開場前にホールで整理番号順に整列。
整列が終わったところで楽団による口上とファンファーレの演奏。音楽を作ってる人が多数参加している劇としての醍醐味はここから始まっていました。

第一幕は「ファ」と「レ」しか歌えない少女「ファーレ」が親を探す旅に出るまでの物語。
冒頭から言葉の意味が捨て去られ、音の響きの感覚だけでやりとりされる会話に圧倒されます。
意味があるのかないのかわからない台詞を意味のあるものとして繋いでいるのは役者の演技。
役者に充分な表現力があるからこそできる演出です。
第一幕終盤を盛り上げたのは「Ring of tales」の合唱とダンス。
祝祭感に満ちた演奏で、キャスト全員が旅立つファーレを送り出します。

第二幕はファーレの旅立ちから数年後。
劇場の裏でファーレが仲間とともに暮らしているところからスタートします。
音を盗むフォーレたちと、それを追う町奉行「人生」たちの一団。
しかし、人生はファーレに作曲家「アロンアロハ」のオーディションを受けさせようとします。
人生の演奏する小鼓、ファーレの演奏する太鼓(コンガ?)が印象的な第二幕でした。

15分の休憩をはさんで第三幕。
オーディションでファーレの声にメロメロになったアロンアロハはファーレと結婚します。
しかし、ファーレは幼いころから聞いていたラジオのパーソナリティ「カレーライス」から
両親が既に他界していることを知ります。
幸せの絶頂にあるはずのファーレは悲しみにくれます。
しかし、歌を歌うことで自分自身も世界を構成する大切なひとつのパーツであることを知ります。

私にとっての音楽劇「ファンファーレ」のストーリーは大体こんなかんじ。

■意味のない物語の「意味」
ファンファーレがどんな物語であったかを一言で伝えるのはとても難しいです。
なぜかというと、「世界はてんでバラバラで、デタラメだ。」という台詞が物語るように、
ストーリーが無意味となるように狙って作られているからです。

どんなところが無意味だったか――最たるものは「ン」しか話せない「ポリ夫」の存在にあったように思います。

ファーレは幼いころから「ファ・ファ・レー」と歌を歌い、ポリ夫はそんなファーレの側にずっと寄り添う存在でした。
「ファ」と「レ」しか歌えないファーレの側に「ン」しか話さないポリ夫が居る――二人の言う言葉を繋げれば「ファ・ン・ファー・レ」になります。
ファーレはなんだかよくわからない理由で瞬間的にアロンアロハとくっついて結婚しますが、最終的にファーレはポリ夫との元に行くのだろうと私は読んでいました。

しかし、最後までそんなことは起こらない。

お話の世界ではよくあることだけど、そんなことは起こらない。
この話は非現実的に見えて、本当はものすごくリアルな物語なのだと思います。

「なんで? なんで? なんでなの?」
第一幕でファーレは何度も何度も問いかけます。
それに対する答えは「ホルンの管をすごいスピードでくるくる回っているうちに、星はダイヤモンドになります」とか、
聞こえはいいけれど、デタラメで、ファーレの人生に答えを与えてくれるようなものではありません。

ファーレが両親が既に他界していることを知るのも、ファーレが結婚という幸せの絶頂にいるとき。
そんなときに悲しみにくれる必要は「お話であれば」ないのです。
しかし、現実の世界ではそういった理不尽なできごとは次から次へと起こります。
人生と向き合う、ということはその理不尽さに「なんで? なんで? なんでなの?」という問いかけることを止めることから始まるのだ――これが音楽劇「ファンファーレ」の最大のメッセージであったように私は感じました。

「いつか絶対に捕まえてやるからな! ファーレ!」と放った人生に、ファーレは逃げ続ける限りずっと追い回されることになるのです。


■ファーレが「ファ」と「レ」しか歌えないことと成長譚としてのファンファーレ
「ファンファーレ」はパンフレットによれば「ファとレしかうたえない少女の成長を描くファンタジー」とあります。
しかし、最後までファーレは「ファ」と「レ」しか歌えない。
なのにどうしてこれが成長の物語なのか。
その答えの鍵を握ったのが序盤から終盤まで繰り返し登場する劇中歌「うたえば」にあったように思います。

「うたえば」の一部は「ファ・ファ・レー」のフレーズとして第一幕から登場しています。
しかし、それが歌として完成するのは第三幕。
「ファ・ファ・レー」のフレーズに他の音階が加わることでひとつの曲になるのです。

「うたえば」が歌われる少し前のシーン、「おとぎ話」がアロンアロハによって歌われる場面では逆に「ファ・ファ・レー」のフレーズが無いために歌として意味をなさないメロディも歌われています。

成長とは、「できないことができるようになること」でも「自分ができないことを人から盗んで自分のもののようにすること」でもなく「自分ができることをみつめ、他の人との関係の中で生かす」ことだ、とこの歌は伝えているのだと思います。

また、劇中にたびたび現れた「ファ・ファ・レー」のメロディはどこか時報の「ポ・ポ・ポ・ピーン」のメロディと似ていたように思います。
ずっと絶えず流れていた「ファ・ファ・レー」というメロディは絶え間なく続く時間の流れ――生きとし生けるものが営みを続けていくことの暗喩でもあったのではないでしょうか。


■同年代の3人の演出家で既成の枠組みを壊す
ファンファーレが「今までにない」音楽劇になりえたのは、演出家同士のコミュニケーションが対等に行われていたところにあると思います。
舞台で音楽やダンスの演出が入るとき、通常は演出家が頂点に立ち、その下に音楽担当と振付師が演出家の指示に従って制作するパターンが多いものです。
しかし、ファンファーレの場合はおそらくそうはなっていない。音楽もダンスも演出という枠組みに収まったりせずにそれ単独の表現として前に出てきているのを観ていて感じました。
たとえ「対等に」と表向きはなっていても、演出家が歳も離れた大御所であった場合はなかなかこうはいかないものです。
同世代3人で演出を固めたのが功を奏していたのでしょう。

演出の上で、少し残念だった部分を挙げるとすれば、第三幕での盛り上がりがうまく機能していなかったこと。

おそらく、幕構成の力配分として、第一幕はダンス、第二幕は音楽、第三幕は台詞(物語性)をメインに置いたのではないでしょうか。
第一幕、第二幕はそれぞれの得意分野が前面に出たうえで舞台上の演出がうまくスパイスとして効いていたのでよかったのですが、第三幕はその力関係が逆転した感を受けました。つまり、台詞の力が前面に出てダンス・音楽の要素が背後に引くという、「普通の演劇」のスタイルに戻ってしまったのです。
結果的に、盛り上がりがそれまでの二幕と比べると尻つぼみとなってしまったように感じました。
客席から出演者が入る演出も第一幕で既にやっていたし、第三幕だけにある「うわーっ」とくる目新しい要素がなにかあったかというと、フルバージョンの「うたえば」だけで、演出としてはちょっともの足りない。
終幕なのだし、背後に引くのではなく、掛け算的にもっとダンスと音楽の要素が加わったほうがよかったと思いました。


…とはいえ、ほんと素晴らしい舞台だったので、柴幸男×三浦康嗣×白神ももこのタッグでまた舞台をやってほしいし、「ファンファーレ」の再演もやってほしい。
この3人の名は、今後の日本の演劇史に刻まれることになる!って私は勝手に思ってます。

こんないいものを創ってくれて、舞台に関わったすべての人々に「どうもありがとうございました」って言いたい気分です。
…客の立場でありながら、こんなこと思った舞台も初めて。
というわけで、次回作、首を長くして待ってます!


(余談だけど、柴幸男と白神ももこは私と同い年。
 同じ時間をもらってここまでこれた人がいるんだな、って悔しさと尊敬の念でいっぱい。
 劇中の地引網の気分。
 いつかいつか、この場所まで追いつきたいって、心底思いました。)


■観劇データ
2012年11月04日 (日) 水戸芸術館ACM劇場 (全公演の千秋楽)

脚本・演出:柴幸男(ままごと)
音楽・演出:三浦康嗣(口ロロ)
振付・演出:白神ももこ(モモンガ・コンプレックス)

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