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春の夜の水 [日記]

溜まった風呂水を抜く午前様。もう設定温度42℃でも長く浸かれる季節になった。排水溝はきゅうきゅうと鳴いている。でも、私はまだこれから食器を洗わなければならない。

今日の仕事は長くかかった。ついに今日、返信できなかったメールのことを思い出す。退職の件は、結局客先にも伝えたとのことだった。ここ数日で、妙に優しくなった客先の社員の顔がよみがえる。仮面が剥げ落ちて、急に人間らしい表情になったように見えた。どうして人間というのは、一番最後にならないとただの人間としての面を見せてくれないのだろう。

でも、私はこれから食器を洗わなければならない。眠たい目をこすると、まぶたが消しゴムのカスになって落ちてくる。蛇口をひねると透明の針金が流し台で鼓笛を打つ。皿を差しこんで、それが流れる水と知る。飛び散る、飛び散る。洗い終えた皿を籠に入れる。毎日変わらない、無我の時間。やりたい、やりたくないを考えていては次の皿が洗えない。

昨日と今日の差がどこにあるか。
「diff 昨日 今日」のコマンドを実行できるなら、私はきっと無量の桜吹雪を手に入れることができるだろう。
しかし、問題はそういうことではない。自分にとって、何が分かれ目なのか、ということだ。
次の季節は、一体どうやって訪れてくるものなのか。

水道の水が冷たくなった。溜まった食器を洗う午前様。誰も起きてはいないのだ。ひっそりとした台所に、私の鼓笛隊がボレロの前奏を打ち続けている。真夜中の低くなった気温。その中で伝わってきた、土の中の、奥深い地下から汲み上げられた、水の生命がふと顔を現した。
『まだこの水は脈を持っている』
他に誰も息づいている者はいない。冬眠からひとり目覚めてしまった熊の心地だった。私は真珠の首飾りを眺めるように、手に水を絡め取った。

春は来ていた。

清廉な香りがする。真夜中の、水道から流れてきたのは紛れもなく春の雪解け水だった。

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