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「オールフィッシュ・エクスプレス」で伝えたかったこと [【掃き溜めに、一葉歌。】のアーカイブ]

早いものでもう文フリから20日経っているのですね。
反省会や買った本の感想も書かねば・・・と思っているところです。
今日はでもその前に、自分の作品のネタバレ的な解説です。



文フリに持っていった唯一の新作「オールフィッシュ・エクスプレス」がどんな作品か、と一言で言ったらいわゆる「震災後文学」です。
一言も原発も地震も(いや、地震は一回出てるか)出さずに、震災によって喪われたものや震災後自分がどんなスタンスで生きていくのか、それを描いてみたかった。そんな作品です。

川端康成が戦後に「雪国」を書いたように、静かな方法で、この事実と向き合えたらいいな、と思っていました。
それは、地震が起こって、それまで書こうとしていた長編(この長編は『関東での大震災から20年経った後、再び復興を目指す派と滅びるままを選ぶ派の二派に分かれた未来の東京』を舞台にしていた)を「ああ、これ書けないな。」と思ってしまってからずっと、自分にとって「書く」という行為が本当に意味のある行為なのか、逡巡した結果わき起こった感情でした。
「『これ』について、自分のなかで決着をつけないとこの先小説書くこともできないだろうな。」
私にとって、「考える」というのは小説を書くことです。

「オールフィッシュ・エクスプレス」では、論理の整合性を見切りました。
そのため、夢の中みたいな「わかるような、わからない世界」になっているかと思います。
「こうだったらいいのにな」を追求したらこうなりました。
特に、「時間を飛び越えたい」という思いが強くあって、それが最後の電話のシーンやレールから外れて峠を飛び越えるシーンを書かせるに至りました。
時間を飛び越えたかったのは、10万年先の世界を見たかったからです。
放射性物質の長い半減期が終わった後の世界を。

あと、これはわかりにくくてさして上手くもない、意味のない言葉遊びだったな、と反省しているのですが、
登場人物の名前はすべて各国の言葉での「私」となっています。

愛:アイ(英語)
舞:マイ(英語)
ミー:ミー(英語)
城:ジョ(スペイン語)
伊比:イッヒ(ドイツ語)
ディちゃん:ディチャン(タイ語)
アコ:アコ(タガログ語)
トイ:トイ(ベトナム語)
移央:イオ(イタリア語)

つまり、とある一人物の、いろんな年代や社会的な居場所による見え方、生き方の違いだった、ということでした。
だから一番最後のシーンだけ、今までのミーの語りから神視点に変わり、ミーも「見られる」存在に変わっています。

・・・じゃあ「マーチ・ヤン」って誰だったのか?
ここは読者の方のご想像にお任せしたいと思っています。

それともうひとつ描きたかったのは「震災で喪われた身近すぎるもの」でした。
震災前、眉をしかめて大まじめに考えていたことや、平気でやっていたことが、震災後には「どうでもいいこと」や、「おっかないこと」になってしまった。
もちろん、震災前後を問わず重要度の高い問題もあります。
でも、個人レベルの問題は震災でかき消されてしまった気がするのです。
震災と比べたら、あまりに小さいこと。でもそれがないことの違和感を、みんなもっと大事にすべきなんじゃないか。
アコが風呂場で話していたことはそういうことでした。


最後に一言だけ。
この作品はね、無料配布するか非公開のほうが良かったのかもしれないな、と今さらながら思っています。


「終わりなき日常」のなかで幼少を過ごしてきた世代に原風景は描けるか [【掃き溜めに、一葉歌。】のアーカイブ]

10/23は「代官山ステキな街づくり協議会」主催の「まちづくりセミナー“まちづくりの哲学”」に行ってきました。
今回は「デタラメな世界の希望の在処」と題して秋田昌美氏による演奏と宮台真司氏による講演の二部構成。
私は二部から参加しました。

タイトルは「デタラメな世界の希望の在処」で、これは「まちづくり」のセミナーのはずだったのですが・・・。
議論は映画、沖縄、宗教、建築などなど様々なジャンルを行き来しながら深まっていきました。
個人的には「希望」も「まちづくり」も議論の中では影が薄かったような気もします。しかし、それはその分、様々な側面を検証し、外堀からじわじわ核心に近づけたということでもありますが。

このレポートでは講演会の内容、というよりは、それを通して考えた「終わりなき日常」のなかで生まれ育ってきた'80年代以降の人間にとって「原風景」を描くことができるのか、ということについて考えてみたいと思います。



今回の講演会のキーワードのひとつに「終わりなき日常」という言葉がありました。
「終わりなき日常」のなかでは余剰が許されず、合理性だけがつきつめられていきます。その結果、どこにいっても合理性だけをつきつめた施設(たとえばジャ●コ)が軒を連ねる「フラットな」世界ができあがりました。

こういった空間は、時間が経っても発酵しません。(だから『三丁目の夕日』のクライマックスにジャ●コは使えない。)合理性の名の下に更新され、モードが変わるだけです。(ジャ●コは建て直しても、新しくてきれいなジャ●コ以外のなにかにはなれない。東京●ワーにはなれない。)
なぜなら機能だけの施設は、それが空間へと発展することがないからです。(だから今でもジャ●コを舞台にした映画はできていない。)

また、別の講演会で、私はこんな話も聞きました。東京芸大で石川直樹氏のトークショーで、
「いろんな場所を旅していますが、原風景みたいなものってあるんですか?」
と問われたときのこと。
石川直樹氏ははっきりと
「ないです。」
と答えました。
「そりゃまあ、小さいときによく遊んだ公園に行ったら懐かしいぐらい思うかもしれないけど、東京生まれだから田んぼ見て懐かしいと思うこともないし。都会の風景って基本的にどこにでもあるものでしょ(…というニュアンスだったと思います。細部は違っているかも。)」

石川直樹氏は30代の前半。私(29歳)よりもちょっと年上だけど、「終わりなき日常のなかで幼少を過ごした世代」であることに変わりないその石川直樹氏の回答を聞いたときに、私は驚いたのと同時に「言われてみればそうかも」と納得もしました。つまり、「懐かしさを感じる風景がない」ことに対して驚いた一方で、「自分が『懐かしい』と思っていた風景が実は『風景』と呼ぶには小さすぎた」ことに納得もしたのです。



私が思う「懐かしい」風景は「それそのもの」でないとほとんど意味がないような差異しかありませんでした。
たとえば駅前のアーケードを見ると「懐かしい」と思いますが、それはそのアーケードでないといけないのです。他の駅のアーケードを見たからといって「懐かしい」とは思わないのです。なぜなら、アーケード自体はどこにでもあるものだからです。



「終わりなき日常のなかで幼少を過ごした世代」には、原風景を描くことはできないのでしょうか。
私はそうではないように思います。
「人が生きて住む」ということは、そこまで単純ではないように思います。
「機能」しかない場所にも人が長く住まうことで、「匂い」がついてくることがあるからです。

たとえば、先ほどから散々括弧書きで「ジャ●コで映画は撮れない」と書いてきましたが、実は最近そのジャ●コ的風景で撮られている映画も出てきています。「サイタマノラッパー」という映画です。
この映画では、高校生時代の片思いの相手と再会する場所としてジャ●コ…かどうかはわからないけれど駅前のショッピングセンターが使われています。これが例えば蝉の鳴く神社の境内で再会する…という設定だったらどうでしょう。それは全然埼玉っぽくないし、かえって薄っぺらくなっていたと思います。
埼玉という新興の都市で幼少から今まで過ごしてきた者にとってのノスタルジーは、神社よりもジャ●コのほうがよりふさわしいと思うのです。



しかし、やはりこういった場所への愛着は「風景」と呼ぶには小さく、個人的すぎるように思うのも否めません。
また誰かの手によってその風景が更新されてしまったとしても、差が小さすぎるあまり「文句を言うに言えない」状態になってしまうこともありうります。これは機能が主体になっている以上、仕方がないことなのかもしれません。

ただ、人が長年生きて住むことで機能に「匂い」がつくことがありうるなら、人の手でそれを増幅していくこともできるでしょう。たとえば、個人的だった思いを他の人と共有できるかたちにすることで。小さかった差異に味付けをして、ここにしかないものにしていくことで。
それによって「終わりなき日常」を生きる者にもより強固な「原風景」を描くことは可能になる、と、お二方のお話を通して、私は考えたのでした。

具体的な方法論については、また今後の研究課題、かな。



前川企画印刷さんで素敵な名刺をデザインして頂きました。 [【掃き溜めに、一葉歌。】のアーカイブ]

そろそろ深森花苑名義でもちゃんとした名刺を持とう、と思い立ち、前川企画印刷さんで名刺を作って頂きました。
私が注文したのは「ブロガー名刺」というもので、ブログへのトラックバックを行うことを条件に格安で名刺を作って頂けるものです。

■ブロガー名刺/有限会社 前川企画印刷(神戸市兵庫区)
http://www.kobe-maekawa.co.jp/products/bloger.html

私は表(カラー)×裏(白黒)の100枚だったので1,500円。
…最近この価格帯の名刺も多くなってきましたが、デザイナー使い放題、校正回数何度でもOKでこの価格はありえないと思います。

当然オンデマンド印刷かな?と思いきや、できあがった名刺のこの印刷品質!
DSC_0282.jpg
…もしかして、オフセット? 仮にオンデマンドだとしても荒さは感じないです。
紙の厚みもしっかりあって、仕事相手とやりとりする名刺として使ってもなんら遜色ないレベル。

そして、担当者の方の対応も丁寧で快かったです。
請求書の封筒に担当者の方が少し直筆の手紙を書いてくれていて、それも嬉しかったなぁ。
この名刺ばしばし使って、仕事獲ってきちゃる!という意欲がわいてきます。


前川企画印刷さん、どうもありがとうございました!




恋が苦しいそのわけは [【掃き溜めに、一葉歌。】のアーカイブ]

恋が苦しいそのわけは
努力が報われるわけじゃないからよ
君のために、と心血注いでみても
心はするりとすり抜ける
もっと掴みどころのなくて自由なもの

それでも伝えたいことがあるならば
一歩進んでみるしかない
もっときれいになってみるしかない
かもね かもね そうかもね

でもね「君じゃないとだめなんだ」の雨が止んだなら
水たまりに魔法の解けないシンデレラが映っているかもしれないよ
そんな慰めでも楽になれないから恋なんだけどね

ほんとビョーキ




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壁にぶつかってこれ以上進めないと思ったとき [【掃き溜めに、一葉歌。】のアーカイブ]

壁にぶつかってこれ以上進めないと思ったとき、
壁を乗り越えようとすればそれは
壁ではなくて
階段になる。

乗り越えたときには、
今までとはまったく別の一段高い風景が
あなたを迎えてくれることだろう。
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2011-07-08 [【掃き溜めに、一葉歌。】のアーカイブ]

死にたくても あと1時間20分 働かなくては 社員として

飯どきに ケツを蹴られて部屋を出る 漫画みたいに終わりたかった

暗い水 髪がべたり 手の中から 人魚は黒い海へと泳ぐ


***

別に死にたくもないし、同棲もしてない。

なにも食べたくない。
なにも飲みたくない。
そういうときに実となってくれるのは、ただ言葉だけのような気がします。
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路地を曲がれば三味線の音が響いていた円山町~しぶやコンシェルジュ第3回ガイドツアー [【掃き溜めに、一葉歌。】のアーカイブ]

6/25(土)、しぶやコンシェルジュ第3回ガイドツアーに参加してきました。
今回のツアーのテーマは「松濤の芸術性溢れる建築と円山町・神泉の三業地跡を巡る」。
高級住宅地・松濤とそれに隣接する円山町・神泉の花街。わずか半径200mの範囲内で、ここまで毛色の異なる風景が広がっているのも珍しいことなんだろうな。
どうして松濤・円山町はいまのようなかたちになったのか。
今回のツアーはその歴史を紐解く町歩きでもありました。

ツアーは午後12時30分、渋谷西武百貨店前から始まりました。
昨日のような猛暑を想像していたけど、雲が少し出始めて歩くにはいい天気・・・。
集合場所前にある銅像の前で立ち止まり、一番はじめの解説――ツアーの始まりです。

■1■西武百貨店B館~人魚と牧羊像~
あまりよく知られていないけれど西武のA館とB館には井の頭通りを挟んで二つの像が向かい合っています。
B館側にはラッパを吹く「牧羊」像。
A館側には結い上げた髪を押さえる「人魚」像。
「牧羊」像は国木田独歩を、「人魚」像は与謝野晶子をイメージして作られたとか。
…言われてみれば「人魚」像の髪はみだれています。

井の頭通りを抜けて、一同は■2■宇田川交番前へ。「宇田川」の地名からもわかるように、ここは昔、川だったのね。今は暗渠になっているけれど。
そして、Bunkamuraの裏へ…。ここまで来ると、もうだいぶ静か。

■3■東急本店角(Bunkamura、上野博士宅)
東急の裏から一本入った道沿いに、ハチ公の飼い主・上野博士の家があったそうです。
ここから渋谷駅までハチはお迎えに出てたのか…。結構距離あるし、ほんと賢い犬だったんだろうな。
そして、ここBunkamuraは昔、小学校があったところだそうで…。うーん、想像がつかない。

番地は松濤に変わり、町の雰囲気は繁華街から一変。大きな邸宅の並ぶ高級住宅街に。

■4■都知事公邸跡
そのなかでも一層大きく、高い塀に囲まれ一尺はあるライトが門に掲げられる、ものものしい雰囲気の邸宅が。
ここは、かつての都知事公邸跡。1900平米の広大な敷地に建てられた立派な邸宅ですが、現在は使われることもなく放置されてるそう。
「公邸」という建物の性質上、再利用も難しいのかしらね…。

■5■観世能楽堂、■6■戸栗美術館とアートなエリアを歩きます。松濤は周りの住居に溶け込むようにアートスポットがあるのがいいなぁ…。
CHEZ MATSUOの前で「行ったことある?」なんてやりながら進みます。

DSC_0043.JPG

蔦とゆるく奥へと曲がっていく玄関が実に素敵…。
「いくらぐらいで入れるんですか?」
しぶコン代表の玉井さんが「適当なこと言っちゃいけない」とパンフレットをもらってきてくれましたが…パンフにも値段は書かれておりませんでした…。行くときは、諭吉をいっぱい用意して、覚悟して。。

■7■松濤中学校前で、松濤の多くの土地が鍋島氏所有の庭だったことをお勉強。この中学校の土地も、かつては鍋島氏のものでした。
元々お庭として使われてた土地だったから鍋島松濤公園も、庭園っぽい造りなのね。

■8■ギャラリーTOM
鍋島松濤公園を山手通り方面へと歩を進めると、ぎざぎざの屋根が特徴的なギャラリーTOMがお目見え。
ここは盲人が彫刻に触って鑑賞できる場所として設立されたギャラリー。
設立者の長男が視覚に障がいがあり、その長男の
「ぼくたち盲人もロダンを見る権利がある」
という言葉からこのギャラリーが作られたそうです。

ぎざぎざの屋根は、そこから光が射し込むようになっており、時間帯によっては光と影によるストライプ模様が館内を覆うそう。
私も訪れてみたいなぁ。眼を閉じて、作品と向き合ってみたい。


■9■鍋島松濤公園でちょっと休憩しながら、松濤がかつてはお茶の町だったことを聞きました。
この辺も全部お茶畑だったそうな。
宇田川が童謡の「春の小川」の舞台だったことからもわかるように、渋谷はかつて豊かな水の恩恵を受けていた土地だったのね。

■10■松濤美術館の曲線美を堪能しながら、■11■神泉駅へ至る小径へ。
この辺りは本当に「谷」だったことを思わせる場所が多かったです。左手が崖のようにそびえ立ち、玄関に至るのに急な階段を上らなければならない住宅も…。

そんな谷の部分をかいくぐって京王線・神泉の駅に到着。
先ほどの谷の延長上、神泉駅前の線路には水路の面影が。

DSC_0048.JPG

トンネル前の、線路を横断してかけられているこの蓋の下。
これが水路になっていて、下を水が流れているんだって。


神泉はその名の通り、昔は弘法湯という湯屋があって湯治に使われる場所だったそうです。
弘法湯がかつて門を構えていた場所は今はマンションになっていましたが、その入り口には湯屋があったことを示す石碑が今も残っています。
・・・この石碑に鋭いいい字が彫られていると思ったら、有名な石屋さんの作ったものだそうで。

坂道を上っていくと、ツアー最後の目的地■12■三業地界隈が。

そもそも「三業地」とはなんなのか。
「三業」とは「芸者置屋」、「料亭」、「待合」のことを指し、これらの業種の営業が許された特別な区域を「三業地」といったそうです。
円山町がかつて三業地であった名残は意外な部分に残されていました。

DSC_0050.JPG

この階段、ずいぶん一段一段が低いです。
それもそのはず、これを上った先は芸者置屋が密集していた場所で、芸者さんたちは階段を下りた先にある料亭街との間をこの階段を使って毎日行き来していたのです。
着物を着た芸者さんの足裁きがいいように、こんなに一段が低い階段が作られたのです。

今ではすっかりホテル街となってしまった円山町ですが、今でも三業地時代から料亭を続けているお店も何軒か残っています。そのときの記憶を体現するように、ホテルのネオンの間にひっそりとお地蔵様が佇んでいました。

三業地の衰退は、継承者不足による芸者の質の低下がきっかけだったようです。
高度成長期、東京に急激に流れ込んだ人口を支えるだけの芸者がおらず、にわか芸者を客前に出さざるを得なくなりました。客の不満は募り、だんだんと客足は遠のいていきました。
都庁舎の移転でその衰退の速度は爆発的なものとなりました。路地に三味線の稽古をする音が響いていた円山町が現在のホテル街の姿となるまでそう時間はかからなかったそうです。

「目をつむれば、今もどこに何の料亭があったか思い出せるのに」

そう語った、地元からのツアー参加者の方の言葉が心に残りました。
時代の流れに翻弄された円山町。
その変遷も含めて知っている人がどれだけいるでしょうか。
円山町だけではありません。
かつてお茶処だった松濤だってそうです。

一度失われてしまった風景は二度と戻りません。
「普通」の風景なんてどこにもないのです。
今ある風景は、私たちが記憶して、後生へと伝えていかなければならないのだ、と感じたツアーでした。


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ばあちゃんが風邪をひいた。~その2・赤い三輪車の男の子~ [【掃き溜めに、一葉歌。】のアーカイブ]

その1はこちら。↓
http://fukamori-kaen.blog.so-net.ne.jp/2011-05-25

今日は再び実家に帰りました。
そこで聞いた、祖母が風邪をひいたときの話、第2弾です。

祖母はインフルエンザにかかっている間、タミフルを2日間程服用していたのですが、その間たくさんの幻覚を見たそうです。
幻覚、といっても、それは麻薬中毒的な幻覚ではなく、過去の記憶をひっくり返したようなものでした。
http://fukamori-kaen.blog.so-net.ne.jp/2011-05-25の記事参照。)
幻覚は、夢を見てるときのような感じで、頭の中に現れたようです。

その幻覚のなかで、一つ、奇妙なものがあったと言います。
弟(祖母から見ると、孫)が出てきたと言うのです。

 *

私の弟、というのは数年前に他界しました。
しかし、祖母の幻覚に現れた弟はそのときの姿ではなく、3~4才の小さな男の子で、顔も弟とはだいぶ違っていたようです。
赤い三輪車に乗って、祖母の前に現れたそうです。

祖母は弟に何度もよびかけました。
「まーちゃん? まーちゃんなの?」
すると、その男の子は、
「そうだよ」
と答えたそうです。

 *

祖母は、弟がまだ生きていた頃、弟にこう言っていたそうです。
「おばあちゃんは眼が悪いから、おばあちゃんが死ぬときはまーちゃんがおばあちゃんに会いに来てね」
だから祖母は、「これは弟が迎えに来た」ということなんじゃないか、と思ったそうです。

しかし、「お迎え」にしては弟の姿はあまりにも貧弱でした。
3~4才の小さな男の子、しかも、乗っているのが小さな三輪車では、祖母を連れて行けるはずもありません。

やがて祖母はこう言いました。
「じゃあ、おばあちゃんが送ってってあげるから、帰ろうか」
そう言うと、弟だという小さな男の子はうなずいたので、祖母は「ああ、まだ死ぬわけじゃないんだな」と思ったそうです。

 *

もうすぐ、弟が死んでから4年が経ちます。
もしも、弟が生まれ変わっていたとしたら、その赤い三輪車に乗っていた男の子と同じくらいの年齢になります。
顔が弟と似つかなかったことも、それなら納得がいきます。

祖母は、これは生まれ変わった弟が祖母に会いに来てくれたということなんじゃないか、と言っていました。

 *

人が死ぬ、というのはいったいどういうことなんでしょう。
それで終わりなんでしょうか。

私は科学の立場からも宗教の立場からも、それを真剣に考えたり議論したりするつもりはないけれど、
魂みたいなもの、って私たちのすぐ側にあって、
見えないところから私たちをちょっとずつ動かしているんじゃないか、って、
ときどき思うのです。
ときどきだけどね。


これから街の中で赤い三輪車に乗る男の子を見かけたら、
私はきっと、手を振ってしまうんだろうな。




一方、その頃じいちゃんは・・・


ばあちゃんが風邪をひいた。 [【掃き溜めに、一葉歌。】のアーカイブ]

風邪、とタイトルには書いたが、実際にはインフルエンザだった。
母親からのメールにそう書かれていたのを見たとき、私はとても心配だったけれどお見舞いには行けなかった。私も風邪をひいていたのだ。祖母は家の中でも隔離されて伏せていたという。私は伝染るのが怖くてお見舞いに行けなかったのだ。

だから、この話は祖母がもうだいぶ良くなってから聞いた。

「寝ている間にね、一生のことが走馬燈のように回ったよ。」
祖母はインフルエンザの薬としてタミフルを処方されていた。そのせいなのかどうかはわからないが、祖母はその間、ちょっと言動がおかしかったらしい(これは母から聞いた話)。「一晩中、ずっと誰かと話しているようだった。」

「銀座で宝塚みて、その後あんみつ食べて…どんどん記憶が溢れてくるみたいだった。
 そういう話したらTさんから『奥さん、これで小説一本書けますね!』なんて言われたよ。」
そのTさんは、祖母に代わって、自らが客であるにもかかわらずお茶を煎れていたらしい。
「『お茶おかわりする?』って聞いて、M子さんが『濃い方がいい!』って言うから『じゃあ、茶葉替えようか』ってぱかって茶筒開けてさぁ。それ、うちのなんだから!(笑)」

母方の叔母さんのお義母さんからもお見舞いの電話があったらしい。
「私の声聞いたら、元気出るんじゃないかね!?」
叔母さんと叔母さんのお義母さんは正直うまくいってない。当然、祖母ともうまくいってない。
電話に祖母が出なくていいように母が食い止めようとしているが、この様子。
自分の励ましで元気になる、と言って聞かない。この確信。この自信。私なら言えない。
でもここまで食い下がるのは、好敵手が落ちていては自分も張り合いがないというライバル同士特有の絆あってこそなのではないだろうか。

「Hさんはポストに薬入れていってくれた。」
Hさんというのは、近所の町医者である。私も小さい頃からお世話になっている。私が大学生ぐらいの頃だったか。年一ペースで胃炎で訪れる私に、神経性のものではないかと安定剤も「お守りにして持ってなさい」と渡してくれたお医者さんだ。自分ですら、それ以前に訪れた自分の様子など忘れてかけていた。一人一人の患者をきちんと診てくれる。
「お母さんが一日家にいなかった日に、わざわざ電話かけてくれてね。それじゃあ、ポストに薬入れておくからって。そんなわざわざ悪いわ、って言ったんだけど、『すぐすぐ。ついでだから。』って言ってくれてね。」

「今回のことでみんな心配してくれて、ありがたいことだなぁ、って思ったよ。」

酷い目に遭っちゃったよ、と言いながら、祖母は久しぶりに実家を訪れた私を、笑顔で迎えてくれた。


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一言もしゃもしゃ [【掃き溜めに、一葉歌。】のアーカイブ]

しばらく書くのを怠っていたら、すっかり感覚が鈍ってしまいました。
こんなときは模写だわな、とも思うのだけど、それなりに時間がかかるのでその行為に耽るばかりも今はしたくないなぁ、と思っていました。(とにかくアウトプットするほうに転じたいのです、今は。)

そこで、一日一言、好きな小説を模写してみることにしました。
小さなメモ帳に好きな場面をペンで模写する。一回声に出して読んでから、机の横に貼る。
貼るのは、常に目に入れておきたいからなのですが、字が汚すぎてその効果は薄そうです。

うっすらながら、感覚は戻ってきたように思います。
もう少しで、新連載の原稿もアップできそう。

まとまった「作品」と呼べるようなものを出すのは久し振りです。
緊張と期待。

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