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浮世絵は江戸~大正という時代を切り取る道具だった!? ~川瀬巴水展@横浜高島屋ギャラリー~ [レポート]

横浜高島屋ギャラリーで開催中の「川瀬巴水展‐郷愁の日本風景‐」を観てきた。いやー、いい展示でした。
川瀬巴水は大正~昭和に活躍した浮世絵の版画師。「浮世絵」といっても、江戸時代からはかなり時代が進んでいるので、歌川広重や写楽のようなものを想像していると違いに面食らう。まず、構図の取り方がかなり西洋画っぽい。遠近感がある。そして、鮮やかな陰影やグラデーションがついている。この辺りの「あっ! 違う!」という感覚は、ぜひ本物を見て体感してほしい。今日、ここでしたいのはそういった絵そのものの話からはちょっと離れた話。

この川瀬巴水、大正~昭和まで幅広い時代を描いているのだが、戦後の作品になるとどうも題材の選定にキレがない。というよりも、戦後になると描かれる風景が「今もよく見る」ものになってしまう。日比谷図書館、増上寺、日本橋……。見慣れた風景が私の眼にはありきたりに映る。
では、戦前の題材はどうだったのか。こちらは自然風景がメインだった。目の前によくあるものを描いたという意味では戦後の作品と題材の取り方としては変わらない。なにがこの差を生んだのか。

取り入れた技法の意味だったんじゃないか。
と、私は考える。
戦前の作品が扱っているのは、浮世絵がよく扱ってきたモチーフだ。これに西洋画という全く異種の技法が入り込んでくることで、新鮮な印象を与えることができた。
対して、戦後の作品はビルなど近代的な建物や工業製品が描かれるが、この描き方は西洋画の手法を使って西洋画風に描いているだけだ。浮世絵という文脈から外れ、単に西洋画を版画にした作品になってしまったことが新鮮味に欠ける印象につながったのではなかろうか。

芸術というのはそれまでの文脈(型といってもいい)を踏襲しつつ、そこにまったく異質な文脈のものを少しだけ入れると新しいものに見えるのだろう。混ぜ具合には臨界点的なものがあり、あまりにもぶち込み過ぎると既存の他分野の劣化コピー作のようになってしまう。

では、芸術に流れている「文脈」は一度確立すれば永遠に有効なのか。私は時代によってある程度賞味期限が決まってしまうもののように思う。なぜ近代的なビルは浮世絵の中に入ると浮世絵にならなかったのか。今まで浮世絵で近代的なビルが描かれなかったからだ。

古典の歌舞伎や能の作品というのは、今までにないまったく新しい演出を考えるのが難しい。なぜなら「文脈」がもうこれ以上動かせない時代のものだからだ。たとえば歌舞伎の登場人物に戦隊物のような衣装を着せて、台詞を現代語に翻訳しなおして上演したとする。まったく新しい演出にはなるが、それを歌舞伎と呼んでくれる人はきっといない。
同じように、風景そのものが変わってしまった近代を浮世絵の手法で描き出すことはもうできない。

時代が変わってしまったら、それまでにあった「文脈」はもう使えなくなってしまうのだろうか。
私はそのヒントも川瀬巴水の作品にあるように思う。

川瀬巴水の作品を見たときに感じた「新しさ」。
それは、グラデーションや陰影の使い方ではなかったか。
横浜高島屋ギャラリーの展示では、川瀬巴水が用意した版をひとつひとつ刷って1枚の絵に仕上げていくさまがVTRになって流れている。それを見ていて気が付いたのは、川瀬巴水のグラデーションや陰影の付け方は、現代のイラストレーションでレイヤーを使ってグラデーションや陰影をつける工程とほとんど変わりないということだ。
つまり、川瀬巴水と同じ手法を使って描かれたイラストを現代の私たちは山のようにみている。
だから、その技法を見ても違和感を感じたりせず、むしろ「新しい」と感じたのだ。

たとえ、一見死んだ文脈に見える手法でも、現代で使われている手法を「つなぎ」として取り込めば、全く新しいアートとして成立する可能性があるのかもしれない。


■川瀬巴水展‐郷愁の日本風景‐
2014年03月19日(水)~03月31日(月)
横浜高島屋ギャラリー(8階)
一般=800円、大学・高校生=600円、中学生以下無料

オフィシャル・サイト

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